まちかど展示館 エリア特集

日本橋編 Part.9 江戸の商売人が躍動したまち -大伝馬町・小伝馬町・小舟町・本町
日本橋編 Part.9 江戸の商売人が躍動したまち -大伝馬町・小伝馬町・小舟町・本町

小伝馬町牢屋敷展示館

牢獄を詳細に再現した模型と遺構から、小さな歴史の断片を探る。

牢屋敷の表門に向かい罪人を運ぶシーンをフィギュアで再現。

牢屋敷は現在の中央区日本橋小伝馬町3~5番を占め、安永4(1775)年以降の面積は2677坪余(約8834平方メートル)でした。

展示館前の「時の鐘通り」を挟んだ向かいにある大安楽寺。
処刑場で亡くなった人たちの慰霊のために明治8(1875)年に創建されました。

牢屋敷の石垣の石は、伊豆周辺で切り出された安山岩を四角錐に加工したもの。

発見された主な石垣と周辺の遺構をイラストや写真で詳細に記した解説板。

十思スクエア別館の奥には、足元のガラス越しに上水木樋(じょうすいもくひ)と井戸も展示。

隣接する十思公園には東京都指定文化財の「銅鐘 石町(こくちょう)時の鐘」や吉田松陰終焉の地の碑などが見られます。

― 伝馬町牢屋敷は通称ですか?
「囚獄」というのがこの施設の正式な名称です。そもそも幕府の施設には町名はつけられておらず、旗本や大名の屋敷にも住所はありませんでした。古地図にも「囚獄」と記されていますが、周囲が伝馬町だったのでそう呼ばれたと思いますが、単に「牢屋敷」とも呼ばれていました。牢屋奉行の正式名称もまた「囚獄」なのです。徳川家康から命を受け、囚獄を務めた石出帯刀は世襲名で、代々その任にあたりました。囚獄という施設は、未決囚を収監する所で、判決は町奉行所に移動して行われ、また囚獄に戻り刑が施行されました。首斬場の跡地は、通り向かいの大安楽寺の敷地内にあり、石碑も残されています。
― 発掘された石垣について?
平成24(2012)年の発掘調査で出土した石垣は、牢屋敷内も強固な石垣で仕切られていたことを示す貴重な発見でした。その目的は脱獄防止もありますが、牢屋敷は思想犯が多く収監されていて、同志らによる囚人の奪還を阻止するためと推測されます。慶長18(1613)年に牢屋敷が伝馬町につくられたころは、まだここは江戸の隅でした。江戸の土地は7割が武家で、残り3割に寺社と町人が密集していました。日本橋界隈は江戸の中心地でしたから、急速な人口増大には抗えず、明治8(1875)年に囚人を市ヶ谷監獄に移送。囚獄は取り壊しとなり、257年に及ぶながい役目を終えました。
牢屋敷は16回も火災に遭っているんです

お話を伺った方中央区教育委員会
図書文化財課郷土資料館
仲光 克顕さん

小津史料館

管理者:小伝馬町一の部町会(平成23年度認定)
東京都中央区日本橋小伝馬町5-19 十思スクエア別館内
03-3546-5346 中央区区民部文化・生涯学習課内
月~金曜日(祝日・年末年始等を除く)9:00〜17:00
開館日:年末年始を除く毎日
開館時間:9:00〜20:00
最寄り駅:小伝馬町駅4番出口 徒歩3分
※臨時休館や開館時間の変更を行う場合があります。
詳しくはお問い合わせください。

TOP