①小林清親「日本橋夜」1881年(明治14年)
小林清親(1847~1915)は江戸に生まれ、二十代後半より版画家として活動。
明治9–14年の間に、深い陰影表現により、光や影の様相を絶妙に描き出す「光線画」と名された新しい画法で注目を集めた。
②日本橋/季刊日本橋/明治初(1867)年
右手前から左奥へと日本橋が続く。江戸の頃から中心地として栄えた日本橋。
明治の写真にも屋台や人力車が数多く見られ、賑わう様子が伝わる。
画像提供:①東京都立図書館 ②中央区京橋図書館
文明開花と共に現れたガス燈と牛鍋
夜の闇に包まれた日本橋にガス燈が灯ります。馬車や人力車、往来する人々の姿がシルエットとして浮かび上がり、ガス燈に照らされた影も小さく描かれ、幻想的な雰囲気です。この絵を描いたのは、明治から大正にかけて版画家として活躍した小林清親。光や影の表現を巧みに操りながら、かつてあった江戸の様子から日に日に変わりゆく東京の情景を数多く描きました。
日本橋にガス燈が設置されたのは明治8(1875)年3月のこと。明治初頭、暮らしを変える技術や習慣、言葉や服装など、東京の街は新しいもので溢れていました。そして食文化にも大きな変革が起こります。江戸では仏教を重んじていたため獣肉を口にすることは禁忌とされていましたが、西洋文化が流れ込むと事態は一変。1862(文久2)年、横浜に日本で初めての牛鍋を出す店が現れます。それを機に東京、日本橋にも牛鍋屋が次々にオープン。清親が描いたこの日本橋の街のあちらこちらにも牛鍋屋が点在していたということになります。
今も日本橋に店を構える「伊勢重」は明治2(1869)年に牛鍋屋として創業した老舗です。現在はすき焼き屋として看板を掲げています。当初は関東では肉を割下で煮込む牛鍋、関西では肉を炒めてから味を加えるすき焼きが主流でした。伊勢重も牛鍋屋として開業しますが、関東大震災を機に関西風のすき焼きが関東でも広く親しまれるようになり現在に至ります。






